
日本の社会では個の自立の度合いが低く、その分、人々は集団活動を好む傾向が強いと言われる。いわゆる集団主義である。何かと集まっては相互の状態を知り合い、行動や言動を調整しようとする。これを人脈活動であるとか、情報交換の互恵活動とか、村的であるとか、ナアナアであるとか、さまざまな呼び名をつけることができよう。
これとの対比でよく引き合いに出されるのが西欧文明、とくにキリスト教文明の中で形成されてきた神と個の関係としての個の自立である。原罪を持った個は神との関係で自立することにより救われる。この意味で日本人は西欧的な自立的個人ではないのであろう。
そして近年の中国社会、おそらく文化大革命時期の中国では、共産党一党支配が進行するなかで、文革の嵐の中を生き抜くために個の自立が必然となったのではないか。この場合の個の自立は、キリスト教文明の中での個の自立とは随分と意味合いが異なるはずである。今日の中国の経済力の高まりの渦中にいると、彼等の現す個のエネルギーは西欧流の個のエネルギーとは異なる内容の強さを持っている。
現在の日本は、そして当面の将来においても、集団主義的な行動を人々はとり続けるであろう。これは西欧的な個の自立の低さかもしれなし、中国の持つ個のエネルギーとも異なる。しかし相対的に日本の集団主義は競争力を低めているのは事実である。となると、この先の10年をみた時、少子高齢化する日本はグローバル競争の中で、お家芸の集団主義に何がしかの進化を追加しなければなるまい。それは、空気のように無自覚でやってきた集団主義の本当のメカニズムをよく点検し、グローバル時代に通用する強みが出せるよう工夫し加工し修正することである。仮説として見見るべきなのは、日本人の特性を知り尽くしたからこそ可能とできる集団力である。それは、西欧的な自立した個の集まりから出てくるチーム力や文革を生き抜いた人々のもつ強い個による集合力に比べ、別次元の強みを持つのではないか。